突然ですがわたしはお話の「先を読む」というヤツにとんと弱いタイプです。
色々と読んできた分の経験というヤツで、はっきりパターンと認識できるものはある程度わかるのですが、基本的にそれこそ「あからさま」なくらいのもので無いと伏線であるとさえ気づかないでしまうこともあるくらい。書き手の掌で踊らされていることを知らない、ある意味でとても「しあわせ」な性質です。
客観的に見ると、わたしがストーリーを追っているときというのは、その瞬間瞬間をただ流れで見ているようです。その「前後」が「瞬間」とどう繋がっているのかという、因果性がまったく意識に上らない。断片的な「瞬間」の集合体を見ているだけで、「瞬間」の連続物であることを意識できていないという感じでしょうか。もちろん、普通に語られている程度の流れは理解してますし、何が起きているのかくらいはわかりますが、あくまで見えているのは流れの「結果」だけで、「どうしてこういう現状になったのか(原因)」「いま起きた結果がこの先どのような事態を誘発するのか(予測)」といった「前後」が見えていないわけです。
この歳ともなると自分がどのセンス(感じる力とでも思ってください)に劣るのかはっきりわかってくるもので、たとえばわたしは音楽のセンスが皆無です。音楽を分解して対象化して音として知覚することがまったく出来ません(聴覚の話ではありませんよ。認知の問題)。映像も音楽ほどではないですが対象化することが出来ません。ただただ流れていって何かわからないけども感動させられる、って感じ。狙って構成をできる気がしません。
話が変わったような印象を抱くかもしれませんが、一応繋がっているつもりです。要するにわたしの劣るセンスの一つとして「時間軸方向の認知」があるんじゃないかと、そういうことです。思えばゲームでもリアルタイム性を求められるタイプの内容は苦手でした。小説を書いていた頃はプロットを起こす際、伏線の回収に整合性を持たせられずに苦悶しました。いまでもマンガを1ページコマ割しろといわれたらできる気がしません。なんとなく言いたいところがわかるでしょうか(自分でもあまり整理できてないのがわかります…)。
さて、唐突にこのエントリの表題に触れますと、まあいま上げた点だけでも十分「書き手」となるには難しい状況ではありますが、「その理由」は実はそんなことではなく。
先日読みました「惑星(ほし)のさみだれ」6巻。たまらず普段はやらない他者の感想などを漁ってみたわけですが、その際に感じたものを一つ(リンク先はモロバレしてますので、読む気のある方はご注意を)。
惑星のさみだれ6巻と単純な物語の話(by 「それはロックじゃない」様)
「うおーっ!そうだよ、そうだよ!あんたわかってるよおおぉぉっ!!」
…と叫びたくなったことは置いといて。
色々と共感できる点が多く、適当に漁っていたレビューの中では一番近親感を覚える記事ですが、決してただの「感想」ではなく「分析」の面からも納得したため、紹介してみます。この記事のいいところは、細部を取っ払い単純化されたストーリーを提示していてくれるところ(笑)。わたしのように「前後」がつながりにくい人間にとって、細部は大筋を見ようと言うときに無視できないレベルのノイズとして邪魔をしてきます。要約ができません。そこを代わりにやってくれ、その上で分析しているというところが大助かり。
大筋を見ると、細部のどれもがあくまで演出として用意されたもののように見てとれます。リンク先の言葉を引用させていただきますと、
それを恣意的に過ぎると感じる人もいるでしょうし、ありがちだと一蹴する人もいるでしょう。
そうなのかな。そうなのかもな。
しかし自分のように単純な人間はまんまとそれに引っ掛かって燃えて泣いてしまいます。
わたしはこっちですね。どこまでいっても仮想体験の主体者で、鳥瞰する立場にはなれません。
そんなことを漠然と感じつつ、↓こちらの記事を読みました。
姫に死をもたらす騎士たちの正義(by MORTALITAS様)
この記事を読んで、「読み手」と「書き手(となれる者)」との間に存在する大きな隔たりを感じたわけです。
読んで頂けばわかると思いますが、この記事の中では各キャラクターについて作中で描かれたことを元に、その行動原理、信念というものを考察しています。そして、それらが相互的にいずれ結びつくものだということも触れられています。例にでている2人の「結果」はただしく「原因」となり、主人公夕日への影響を「予測」させるものであると。この考察に基づく限り、細部はわからずとも最終的なストーリーの向かう先ははっきりしています。
「アニマは君に賭けている」
秋谷のこの1文の意味を、わたしはただただ漠然としか受け止められませんでした。しかも、おそらくは十中八九誤解した形で。
違いました。
夕日の静かな変化は確かに作中から行間を通じて読み取れます。その変化がもたらすであろう局面もそれなりに匂わせながら、しかし、「予測」が働かないで読んでいるわたしにはそのことは頭の片隅に靄のように残る不安感みたいなものでしかありませんでした。
この考察を読んだ上でなら、断言できるとさえ言いたくなるほど、先が「読め」ます(その「先」の結果がどうなるかはもちろんわかりませんが)。夕日は命を落とすことなく、さみだれも同様、そしてビスケットハンマーは振り下ろされることはないでしょう。騎士たちは少なくとも「勝つ」でしょう。そう思わせます。
これはキャラクターの中に根ざした「意思」が紡ぎだす因果の果ての、必然的な決着です。プロット上の「伏線」「回収」という整合性で片付けられるものではありません。しっかりと「土台」が、「下地」があるわけです(まあ、書き手サイドとしては「掘り下げた」わけですが)。
わたしにはここがありません。同じプロットは書けても、その下には何も無い、ただのハリボテです。
「書き手」にはなれません。
p.s. ここで紹介したサイト様の考察はあくまで個人の分析によるもので、絶対正しいとか明らかに間違っているとかいう性質のものではありません(わたし自身は納得しましたが)。このエントリにおける意味は考察の是非ではなく、水面下に隠されたメッセージへの認識にあると思っています。それから、合わせて「感想と批評の違い」という記事も読んでいただくとわたしの思う「書き手」たる資質のなんたるかがわかるのではないかと思います。
しかし自分ごとながら、この文章も「前後」が見えてない、まとまりの無い文章だなあ…と。
こんばんは。「それはロックじゃない」のARRと申します。リンク及び共感頂きましてありがとうございました。記事の方、大変興味深く読ませて頂きました。私も一時「書き手」になりたいと思った事もありましたが、どうやら一生「読み手」のようです。それならばせめてその中間の「こんな漫画があるよ。面白かったよ」と知らせる「伝え手」になりたいと思って細々とブログを続けています。
少しでも伝わった事が嬉しく、長文になりましてすみません。またこちらのサイトも覗かせて頂きます。ではまた。
ARRさん、はじめまして。こんな辺鄙なところへコメントいただきましてありがとうございます(笑)。
なるほど「伝え手」…吟遊詩人みたいですね。「語り継ぐ」とまでおおげさなものではありませんが、そういった立ち位置もまた、大切と思います。深く考えますと、「伝え」たことでその誰かが「書き手」となれば、間接的にでも自分の「書きたかった」ものが世にでたといえるんじゃないかな、と。ま、無理矢理で自意識過剰な考えではありますけども。
せめてそんな形でも「書き手」に繋がっていたいなと、わたしなんかは思うわけですね。
それにしても「惑星のさみだれ」、間の取り方といい、感情の描き方といい、素晴らしい構成力だと思います!
どうにも焦点の定まらない稚拙な文章ではありましたが、ご拝読ありがとうございました。7巻発売の際には期待しております(笑)。