何事も「そのままである」ことは難しいものです。
いつも見ているブログ「ふちゃぎん家」で今日、ブログ休止の予定が発表されまして、「えっ?」と思ったと同時に、そこまでショックを受けたわけでもない自分がいることに気づきました。
休止の理由は納得のいくもので、個人的には賛成の立場でしたし、その意味では落ち着いていたのもわかるといえるのですが、じっくり考えるとやはりそういう性質のものではないとも思えます。というのも、『撮る事が「趣味」から「義務」になっちゃってて』というブログ主のひと言、これではないでしょうか。
『「辞めるため」ではなく「撮り続けるため」の選択』とも書いていますが、この二つに私はタイトルにつけました「恒に在ることの難しさ」を改めて感じます。ブログ主としてみれば「趣味」であり内発的な表現の結果としての動画撮影だったわけですが、多くのギャラリーがついたことで次第に「義務」である外発的な表現になりつつあったということ。そして、それに対する決断としての「撮り続けるため」のブログ休止の決定。「恒に在ろう」というブログ主の苦悩が見え隠れするところです。
が、一方でギャラリーとしてはその決定は「恒に在った」ブログが無くなることを意味します。
インターネットが普及し個人が普通に情報を発信できる時代になってからというもの、無数のサイトが生まれ消えていったのはどなたもご存知のことかと思います。理由は様々とはいえ「続けること」の如何に難しいことか、この事実が雄弁に語っているように思います。変わらず続いているサイトもわずかにあるでしょう。それでも、その中には自分の手を離れて一人歩きを始めた「化け物」サイトが少なからずあるはずです。そのサイトの初心はどこにいったのでしょう。
もちろんだからといって時代の変化を否定するものではありません。「恒に在る」ことの目的が変わればそれにあわせて変化していくのも当然でしょう。ブログが流行り、個人サイトの多くがそちらに移ったといっても、そのそれぞれが「表現する場」を変えただけであればそれは「恒のまま」ともいえます。反対に、場が変わらずとも、そこが「表現する」ことを放棄してしまえば「恒ならず」ともとれます。
それだけに、「恒に在る」というのはなんと難しいことなのだと痛感させられます。
最後に。
「ふちゃぎん家」のふちゃ主様、一年間、お疲れ様でした(まだしばらく先ですが)。今後も魅力的な動画の数々をご期待しています。